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このページは 2008年 01月 06日 10時02分38秒に更新されました。 |
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先週は、新しい契約について見てゆきました。今日は、ガラテヤ5章1節から、「愛によって働く信仰」という題で、その続きをお話しします。 【1節】ここでは、二つの大切な勧めが出てきます。ひとつは「しっかりと立つ」ことです。私たちはイエス・キリストによって律法と束縛、呪いと死から解放され、自由な者になりました。いろいろな教えに揺るがされることなく、この立場にしっかりと立つ事が大切です。もう一つは、「奴隷のくびきを負わせられない」ことです。「くびき」とは二頭の家畜の首にあてる横木のことですが、パウロは律法主義を受け入れることで、本来負う必要のない奴隷のくびきを負わせられないように、すなわち律法によってがんじがらめにされないように忠告しています。 【2〜5節】割礼は、律法の慣習として代表的なものと言えます。当時の偽教師たちは、イエス・キリストを認めながら律法も重んじるという立場で人々を教えていました。一瞬、「イエス・キリストを信じているなら、割礼ぐらいはよいのでは?」と考えてしまいそうですが、実はここに大きな問題がひそんでいるのです。もし、救いの条件の中に律法の行いを入れてしまうなら、キリストの贖いは不完全なものになり、律法を行う人も神様とともにほめたたえられる存在になってしまいます。また、律法を救いとは結びつけずに導入したとしても、ユダヤ人以外の異邦人が福音を受け入れる時に問題を引き起こします。どちらにしても律法の道を歩むなら、その人々にとってキリストは何の益もなくなってしまいます。また、この律法化の問題は、今も様々な形で存在しています。聖書通読、早天祈祷、感謝など、それ自体はよいものですが、これが律法化するとノルマが生じます。(「○○をこれだけするように!」という決まりを作り、各々にそれを達成するための目標が課せられてゆくことをノルマと言います。)律法はノルマを達成している間は「優れた者」と評価しますが、できなくなると、即座に裁かれる存在にしてしまいます。そのため、裁きを恐れるあまり、「できた」と偽らざるを得ない状況に人を追い込むことがあります。律法主義は、人と神様の間に割り込んで健全な交わりを妨害し、主を信じる人々の間に上下関係を作ります。これは福音が教える関係とは異なるものです。 割礼を受けることは、律法に従うという意思表示です。英語の聖書では律法を行う人のことをデッター(Debtor:借金を抱えた人)と呼びますが、主イエスを信じる人は、イエス様がすべての負債を払って下さったのでデッターではありません(コロサイ2:14)。義の道には律法を完全に行う道とイエス様を信じる二つの道がありますが、私たちは、そのどちらか一方を選ばなければなりません。もし律法の道を選ぶなら、信仰によって得られる祝福を受けられず、大変な損失を被ります。しかしイエス様を信じ、義とされる道を選ぶなら、その人は神様の子どもとされて、信仰により、聖霊によって義を頂く望みを抱き、天と地において祝福を受ける者となります。 【6節】「愛によって働く信仰」の一方で、愛によらずに働く信仰があります。�汽灰螢鵐硲隠馨錬院腺垣瓩鮓�ると、山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもないと言われています。これは、愛がなくても働く信仰の存在を示唆しており、私は律法化と何か関連があるのではないかと考えています。ともかく、人は主イエスを信じても律法主義に落ち込み、勝手に決まりを作って達成を求めることがあります。以前のことになりますが、信仰の対応ということで、みことばの適用や主のみ声に聞き従い、みことばを宣言する、感謝を行う、悔い改めるなど、そうした勧めをよく耳にした事がありました。しかし、これも愛に基づくものでなければ本来の意味を失ってしまいます。律法主義のスタイルで信仰を働かせると、愛の欠如ゆえに人々が傷つき、疲れ果て、働きが値うちのないものになってしまうのです。 愛によって働く信仰は、律法スタイルよりも時間や手間がかかるかも知れません。しかし神様に祝福された働きの中で真の価値を見いだすということは、とても大きな恵みです。聖書で語られる愛の定義を律法化することなく、主にある成長の中で「ものさし」として用い、主に愛を求めてゆくなら、主は私たちの心をご自身の愛で満たしてくださいます。本当に価値ある歩みとは、神様の愛によって働く信仰の歩みであるということを、ぜひ知って頂きたいと思います。
[ 37] 愛によって働く信仰
[引用サイト] http://www.paw.hi-ho.ne.jp/maranatha/message040627.htm
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前回は、イエス様によって与えられている自由を、愛をもって互いに仕え合うために用いるということをお話ししました。今日は、「御霊によって歩むとは」という題で、その続きをお話しします。 【16節】当時、ガラテヤの教会では、律法や慣習に熱心な人たちがいました。しかし、律法は罪を指摘しますが、それを解決する力はありません。解決はイエス様を信じる信仰の道だけです。私たちはイエス様への信仰によって義とされ、罪から自由にされましたが、この自由には二つの選択肢があって、「もう裁かれないのだから何をやってもよい」というような肉(欲望)を働かせる歩みと愛をもって互いに仕え合う歩みがあります。この選択肢を「御霊によって歩む」という点から見ますと、聖霊によって歩む時には、愛をもって互いに仕え合う姿が表わされてくることが分かります。御霊は肉の欲望を満足させない方向に導く方なので、愛に基づいた関係が周囲の人たちとの間に築かれているかを確認することで、私たちは御霊によって歩んでいるかをチェックすることができます。 【17節】肉と御霊の対立は、クリスチャンの心の中で起こってきます。私たちはイエス様を信じた時に新しい者として生まれました(ヨハネ1:12〜13)。しかし、同時にイエス様を信じる前に持っていた古い罪の性質(肉)があって、この両者が心の中でぶつかるのです。(これは信仰の成長過程で、どの方も通る道です)このことについてパウロは、自分がしたいと思うことができない。すなわち、自分は善を行いたいと思っているのに、したくない悪を行ってしまうと言っています(ローマ7:15〜20)。生まれながらに持っている肉の性質には罪に導く力があるので、新しく生まれた自分は善を行いたいと願うのに、肉は罪を行うように働き、葛藤が生じるのです。しかし、私たちが御霊の助けを受けて歩むなら、肉の欲望を満足させない方向に進んでゆくことができます。 【18〜21節】イエス様を信じた時に私たちは贖われて、神様の子どもとして新しく生まれました。ですから、私たちは律法によってさばかれることはありません。しかし、私たちの前には肉の問題が立ちはだかっています。19節には肉の行い(罪)について書かれていますが、ここから罪を四つに分類できます(�\�的な罪 �い爐気椶蝓法�このリストを見ますと、ねたみなどは自分にもあるなぁと思い、ドキッとします。しかし先にも述べましたように、イエス様を信じる人の内にも肉(罪の性質)が存在します。私たちの心の中では聖霊様と肉の間に対立が起こって葛藤が生じるのですが、私たちが聖霊様と共に歩むことを望むなら、聖霊様は罪を認めさせ、悔い改めに導き、赦しときよめの方向に導いてくださいます。神様は葛藤の末に現れてくる罪の問題を、聖霊様の助けの中で悔い改めに導くという方法で解決する道を備えておられるのです。 【22〜23節】ここで御霊の実が出てきます(愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)。これはイエス様の似姿に変えられてゆく聖化の過程で表わされてくるもので、9つの実はイエス様のご性質の現われと言えます。福音を宣べ伝える働きの中では、よく「聖霊の賜物」に注目が集まりますが、「聖霊の実」も同じように大切です。それはイエス様のご性質が、私たちの内に形作られる実によって表わされてゆくからです。私たちがキリストのかおりを放つ者として歩むためには、御霊の実の成熟が欠かせません(�競灰螢鵐硲押В隠粥腺隠掘法� 【24節】イエス様を信じていても私たちの内には肉の欲が存在し、現実にそれは影響を及ぼしてきます。しかし、イエス様はその肉の欲とともに十字架にかかってくださったので、それは処分された、焼き尽くされたという立場に立つことが大切です。ですから、私たちはもはや、古い自分である肉の欲に従うことをしなくてよいのです。御霊の願うところ、新しい自分に従うのです。 【25節】御霊によって生きる者とは、その人の内に聖霊が住んでおられる人々のことです。聖霊は、私たちに新しい心を与えてくださいました。私たちは、聖霊(御霊)によって歩むことを選びましょう。御霊によって歩む時、愛をもって互いに仕えるという形が伴います。しかし、注意しなければいけないことがあります。それは、御霊によって歩むことについて ただ、御霊によって歩むこと、そして、愛によって互いに仕え合うことを目標としてください。私たちは不完全な者ですが、イェス・キリストの十字架のゆえに、恵みによ
[ 38] 御霊によって歩むとは
[引用サイト] http://www.paw.hi-ho.ne.jp/maranatha/message040711.htm
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同じライン上で統一されること、その一致が人々の精神において本質的なものとなること、すなわち人々が相互に理解しあい、一体化し、それが彼らの本質的な性質において同じ深さをもつようになることは、アッラーが信者たちをよくされる際の大切なきっかけ、媒介となります。そして、この一体化し一致している精神は、アッラーがご助力くださるという点で、「ドゥアー大全」を日に1、2回読了することよりもなお、意義のあるドゥアー、祈願となると私は信じています。統一、一致のうちに一体化した人々の精神、心には、アッラーの庇護、援助の御手が伸ばされ、彼らを常に善へ、正しい方向へ向かせられるのです。 この点で、「精神的友情」というのはすばらしいものです。ただ、それだけでは不十分なのです。兄弟となること、一致することというテーマは、感情的なものであるという以上に、意志にかかわるものといえます。それが実現するためには、決意と、意志、そして努力が必要です。信者がお互いを愛することにおいて基盤となるものは、感情的なものという以上に、信仰の一致が集団の一体化へと移行することに結びついている、論理的な友情、兄弟としての愛情なのです。 だからサイド・ヌルシ師は、「あなた方の創造主は同一、主は同一、崇拝する存在も同一、糧を与えられる存在も同一。千にもいたるものが同一である。あなた方の預言者は同一、宗教は同一、キブラは同一。百にもいたるものが同一である。」といわれたのです。 私たちの教えのあらゆる命令は、この方向性のうちにあり、精神の一体化をもたらすべく、方向付けられたものです。たとえば、礼拝は私たちを日に5回、同一というドームのもとに集わせます。先に来た者が前に並び、後から来た者が後ろに並びます。時には、私たちが望まない人と隣り合わせになり、礼拝をせざるを得ない状態が生じます。しかしそこではけんかや怒りのことを私たちは忘れます。 列に並んでいる時には、かかとやひじがお互いに触れ、肩があたります。私たちは自分の腕を、隣のいる人のために少々狭めます。額を礼拝用の絨毯につける時には、私たちの腕は兄弟たちと抱き合うような形になります。ほかの兄弟たちのにおいを感じ、彼らも私たちのにおいを感じます。私たちは彼らの不快な部分を目にし、彼らも私たちの不快な部分を目にします。これらはみんな、隣にいる人との間に、一部であれ精神的な接触、一体化をもたらします。私たちが気がつかないような精神的な一体化、心の一体化です。しかし少なくとも、隣にいる人が、逃げ出さなければいけないような、遠ざかっていなければいけないような人ではない、という感覚が、私たちの心に起こります。 サフールやイフタールによって、そしてさまざまなすばらしい出来事によって、あらゆる信者たちと喜びを分かち合うラマダーンの断食、貧者と富裕層の間の重要な架け橋であるザカート。私たちの町にあるモスクの拡大であるマッカの聖モスクで、さらに大きな集団となって集い、さまざまな色、民族の人々と、同じモスクのドームの下、同じテントの中にいること、カーバの周囲でともに周回し、ともに並んで走り、一緒にザムザムの井戸に降りていき、誰か知らない兄弟が使った鉢を使い、ほかの人が水を飲んだ同じ蛇口から水を飲む・・。一致、共同が生じる巡礼。これらすべてのイバーダが、私たちをともに生きるよう呼びかけ、そしてそれに慣れさせているのです。そう、イスラームの根本的な原則にある機知を把握するなら、あらゆる道が一致、一体化、統一といったものを示していることが理解されるのです。 基盤にこの精神を持つイスラームを実践する際には、私たちもその一体化に到達できるような態度、振る舞いを、意志を伴って示すことが必要となります。忘れてはならないことは、ほかの媒介によって試されているのと同様に、私たちはお互いによっても試されているということです。つまり、アッラーは、出来事、悪事を行なう者からの災いなどによって試されるように、私たちの兄弟たちによっても試されるのです。聖クルアーンでも、「このようにわれは、彼らのある者で外(ほか)を試みる。」(家畜章第53節)と啓示されています。だから私たちは、ほかの信者たちとの間に生じる関係を、試練のひとつのあり方だとして把握し、あらゆる否定的な感情、思考、行動を、試みの要素としてとらえなければならないのです。 人が、試練の場にあることをきちんと最初から理解できていなければ、あらゆる立場の人が彼に厄介をかけ、手を伸ばしてつかんだすべての枝は折れ、地面は揺らぎ、みんなが彼に対して敵であると思い込むようになります。これらがすべて、試みの要素に過ぎないことを認識できれば、このような思い込みはなくなります。衝撃を与える、醜悪な見かけの出来事が、ごく自然な、安らぎすら与える出来事と化すのです。少しばかり耐えることが必要なのです。 私たちは人間であり、だからいくつかの欠点があることはきわめて当たり前です。人々を個別に観察し、言い分を聞き、精神分析をすれば、彼らの友人たちに対しどれほど不満を抱かせているかを、容易に見ることができます。これは人間の本質として存在するものです。だから、心が広く、優しい顔を持つ人になるように努めなければならないのです。目の前に現れる山々や上り坂を乗り越えていくように、友人たちの過ちをも、しもべとしての道の途中の難所、として受け止め、それらを忍耐と寛容、優しさという翼を用いて乗り越えるべく、努力しなければならないのです。 人は永遠の幸福を求めるものであり、だからまず次のことを考えなければなりません。すなわち、私たちは容易に手に入るようなささやかなものを求めているのではなく、永遠の幸福を求めているのです。私たちの目標がこれほど価値のあるものである以上、その目標の価値に比例する形で、忍耐し、困難を乗り越えることが必要となります。この大きな目標を目指して歩く道の途中で、坂として私たちの前に現れる、気に入らない態度、言葉、行動などを、聖なるその目標のために受け入れ、試練の要素であることを認識し、そしてよい性格でそれらを乗り越え、歩き続けなければならないのです。 だから、私たちが人々の欠点よりも、いい点を見出してそれを評価できればどれほどいいでしょう。他人の過ちに対して見ない、聞かない、話さないという態度をとり、人の欠点を見ず、聞かず、それらを話さずにいられたらどれほどいいでしょう。アッラーが私たちをお許しになられるように、また預言者がお許しにふさわしくあられ、一部のしもべたちをお許しにふさわしい状態になさったように、私たちも皆を許すことができればどれほどいいでしょう。 イスラームは、人々の欠点を追及せず、望まないものを見た時は目を閉じることをサダカと見なします。聖クルアーンでは「順境においてもまた逆境にあっても、(主の贈物を施しに)使う者、怒りを押えて人々を寛容する者、本当にアッラーは善い行いをなす者を愛でられる。」(イムラーン家章第134節)とされています。
[ 39] お互いによって試される
[引用サイト] http://www.isuramu.com/essays/brokenpot_21.htm
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