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このページは 2008年 01月 06日 10時02分38秒に更新されました。
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考えとは?

考えがまとまるとか、まとまらないとか言いますが、ここでは自分の考えを、とにかく文章という形にして、自分が「おまえの気持ちはこういうものでいいのか」と自分に問うていく、そういう自分を確かめるための材料として、書いていきます。
こういうものをいくつか結びつけ、組み立て、継ぎ足して、自分の考えとして公表できるようなものにしていければいいなと思っています。
自分のことを書くとなると、やはり自分の行為、行動が材料となる。自分の行為、行動、態度など外にあらわれたものを、自分が見て、それを自分が「書く」のである。そこには二人の自分がいるようだ。行動してしまった自分と、そおれを批判したり反省せよと責めている自分とである。
自分のことを直接見ることは出来ない。自分の顔を見るのに鏡を使うように、自分の心を見るのに、自分の心を映す鏡が要る。私の場合、自分の気持ちを文章にして、それを自分が見るのである。絵描きは自分の意思を、イメージをカンバスに描いて自分を確かめていくのだろうし、彫刻家は粘土に、音楽家は曲を作ることに、それぞれ自分の内部を表現して、自分を確かめ確かめして、生きていく。生きるということは表現すること、表現していくことだ。そういう気持ちがなくとも、人間が生きていくときには、その人らしさが出てしまうものだ。意図しない自分が出てしまう、それを表現とは別に表出といっておこう。自分の行為、行動、言動、など、自分の内部が外に出てきたものを、自分が見ていくとき、そこに、自分そのものが見えてくる。
久しぶりで古い友達にあった。昭和30年ころの友達で、友達というのは当時の同僚と生徒たちのことだが、皆友達という感じの60歳になろうとするおじさん、おばさあんたちだ。同期会に呼ばれていったのだが、あの当時の話、回顧談というのだろうか、そんな話がでて、しみじみ思うのは、あの当時は世の中全体がおおらかだったということ。今のように気を使わなくてもよかったというか、万事が伸び伸びしていたということだ。そんな感想が聞かれた。あの当時は生徒も教師も伸び伸びしていたということ、今の方がせせこましく窮屈になって、縮こまっている。どこにそういう原因があるのか、どう思うかと聞かれて、さてと考えてしまった。このことは私の気持ちの中に宿題となって残っている。
自己一致ということ。自分の気持ちと自分がしていること、言行というものが一致していること、これを自己一致という。こういうと単純なようだが、これはそんなに簡単なことではない。というのはどのような言動にしても、本人が心のどこかで思っていることが言うこととか、やることになってでてくるものだという言い方も出来そうだし、逆に、イヤ人間というものは自分でもどうしてそんなことやってしまったのか分からないことを、しばしばやってしまうものだ、自分でもどうしてそんなこと言ったか、わからないことを言ってしまうもの、口に出してから、拙いと気づいて、あっ、しまったとあわてるなどということがあるもの、とても自己一致とはほど遠いものだ、とも言えそうだ。これを解釈するのに意識と無意識という概念を援用する。人間の心は自分でもその存在がわからない部分・・・無意識と、自分の意識になっている部分とがあるという考えによって、分かったような気になる。この「分かったような気になる」という言い方、私はこれにたいていのものは含まれるように思うのである。自己一致というものの考え方もその一つである。
自己修正の難しさは自分というものを分離することの難しさだと、こんなことに気が付いた。いや気が付いたというより、ふと考えたという方がいいだろう。私は以前から私というものはアンビバレントな存在、つまり私の中には二つの考え、思いというものがあって、それが対立することが少なくないと思っていた。平たく言えばあれにしようか、これにしようか迷ってしまうことが多いのである。それを優柔不断ということもできるし、慎重なのだと言うこともできるが、そういう二人の自分がいて、これならこれと決定できないでいる。「これをやろう」とか「これをやめよう」とか、心で思っても、「まあいずれな」、とか、「そのうちにな」、とか曖昧なことを思ってしまって、ずるずるとそのままになってしまう。自己修正が難しいとは「思い立ったが吉日」と考えて、即座に取りかかることだと、私は思っている。それがアンビバレントな自分を両方引きずっていないで、はっきり分離させることと考えた所以である。
気遣いも難しい。家族の間でも、夫婦の間でも気遣いは容易いことではない。やさしい気遣いをしたつもりでも受け手の気持ち次第で、それがいやらしく感じられるときもある。ビクビクしているとか、オドオドしているとか、顔色をうかがっているとか、マイナスに感じられて、もっと堂々としていなさいなどと言われることがある。自分の思い、感じたことがそのまま通りにくい。相手の考え、解釈というものがあって、それがぶつかり諍いになる。相手にどう伝わろうと自分がしたいことを、したいという理由だけですること。結局、これが自分にとって一番いいことのようだ。
絵描きさんにその人が描いた抽象画を指して「これは何ですか」ときいたら「自画像です」とこたえたという。
作家が書いたもの、彫刻家が制作したもの、私のような者でも自分が書いたもの、何かの作品は、すべて自分のイメージをそういうカタチにしたもので、すべて自画像だということができると教えられた思いであった。着るもの、話すこと、ちょっとしたしぐさ、表情、あらゆるものが自分なのだ。このHPにしても私自身でないものはない。私なのだ。が、その私とは何か、どこへ行くのか、これからどうなるのか、どうなりたいのか、こんな素朴な質問にも答えられないのも私、あれこれ迷っているのも私、やっぱり私って何なのか、わからない私、わかるヤツがいるのかなあ。いないと言いきっていいのかなあ。それもわからない私。そんな得体も知れないヤツが私なのだ。
文化は人間の楽しみから生まれた。こういうと誤解を受けるかも知れないが、それは「楽しみ」という語の中に、低俗なものを連想させるものもあるからで、そういう誤解は下劣な品性がもたらすもので、ここではそれは論外にしておく。ここで私が考えるのは、あらゆる文化は人間の本質である「楽しいことをする」という動向の結果、生み出されたものであるという考えである。人間の意思を絵や形に表すこと、それ自体が人間の楽しみであるので絵画、彫塑、造形という芸術が生まれた。意思や思考を表現するのに文字が使われ文学が生まれ、音を媒介にして音楽が生まれてきた。それぞれの表現は人間に楽しみをもたらしたのであって、その結果の芸術の誕生は「楽しみ」がもたらしたものということができる。人間の表現、描くこと、造ること、書くことなどは、人々に楽しみをもたらす。人は、その本質にそういう表現を楽しむという傾向をもつものであると考えるのである。
これまでの制度というかシステムの中で、これはいい制度だなと思うものが、新しい考えの中でなくなってしまうと、やはり私は何かと口出ししたくなる。私は長年公立学校の教員であったから、最近の学校の様変わりが気になって仕方がない。その一つに教員の研修制度のことがある。その研修によって教員の技術技量の向上とか、教職意識の高揚というものがあったと思うのである。その研修制度に重要な意味を持つものとして指導主事制度があったと思うのである。指導主事は現場の教員の中から、それなりに実績のある人を教育委員会が選んで、各学校での研修とか教育研究に助言者、あるいは講師役として参加させるというものであった。つまり指導主事は自らの実践や研修の成果を、同僚の教師たちに広げていく役割を持っていたのである。それゆえ指導主事はそれなりに研修を深め、自らの実践を確かなものにしていく。人一倍勉強もし、多くの学校の実践から学んで、その見識を広げていく。指導主事はその意味でもエリートであり、ある種のプライドももっていた。他の教師もその実践力に敬意を表し、一目置いていた。自分も指導主事になりたいとあこがれるものもあった。それは学校教育全体のレベルアップに少なからず貢献していたのである。その指導主事の役割が変わってしまったという。現行の指導主事には教科指導の先達としての役割はなく、学校運営全体の事務上のサポーター的な役割になっているという。したがって教員全体の指導力アップは教科指導を専門に勉強し、実践していく先達のないまま行われることになったようだ。これが全体としての指導力の低下につながっていると指摘する人もいる。これが私が指導主事制度の復活を望む所以である。
この二、三日、気にしていたことがある。いやもっと前から気がかりなことがあった。わざわざこういうところに書くこともないことだが、ホームページの増量登録のことで、増量したがどうも増量分を使っていないということ、月々使用料だけは支払われる。預金利息が10円とか15円とかの時代に使用料525円はバカらしい。増量分は解約したいと思っていたのだが、そのノウハウがわからない。毎月UCの利用代金明細書が送られてくるたびに、解約手続きを模索するが、どうもそのノウハウが明確でない。気にしながら数年間、「うやむや」にしてしまっていた。年間6000円あまりの無駄な経費、それが数年そのままになっているのは、怠慢もいいところだ。そこで今回は何としても解約手続きを完了するぞと、粘って四苦八苦し、とうとうその操作完了にこぎ着けた。そして最後のクリック。するとあっさり「解約しました」とサインが出て…それで終わり、実にあっけないことであった。こちらはあれこれ調べて、操作を行き詰まらせ、さんざ苦労したつもりなのにこんな味気ないものなのか。そう思ったら気抜けした。こういう感じがパソコンの世界なのか。汗も涙も人の息もない無機の世界、プラスかマイナスか、1(イチ)と0(ゼロ)しかない世界。情緒がない世界・・・。そこであらためて「来てみれば、さほどでもなし富士の山」という歌が胸に浮かぶ。浮かぶのは私が人間だからでコンピュータにはそんな情緒は毛ほどもあるまい。これはやはり味気ないというのだろうな。幼いころからコンピュータをいじっていて、コンピュータに同化してしまっているかのような子どもは、やはり血も汗も涙もないニンゲンになってしまうのか、などと感じてぞっとする。
これは完璧な幸福の秘けつである。今の日本では、今の状態を「喜べ」などという人はいないであろう。それどころか、社会にどのような不満と不正義があるかとあげつらうことばかりに熱心である。昨日の新聞がそうだったし、今日の新聞もそうであった。明日の新聞も多分そうであろう。しかし喜びなさい、とパウロは言う。…とこれは曾野綾子「現代に生きる聖書」の一節。こういう考えが幸福の秘けつ、しかも完璧な幸福の秘けつだという。存在するもののすべてがよいものであるというのであるから、そういう世の中にあることは幸福に違いない。戦争も、テロも、裏金づくりも、イデオロギーの対立も紛争も、すべてを「よきもの」として「喜べ」というのだから、そんなことできるはずはない…というのが普通であろう。だがそれを、努力して「喜べ」というのがキリスト教的命題であるという。

[ 29] わたしの考え・感想
[引用サイト]  http://www.hpmix.com/home/msekidon/mypage2/C5_3.htm

 

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