恋愛
 恋愛相談
    もてる為の情報がここに集約
 恋愛恋愛相談室

恋愛の相談

 


 ★ メールマガジン ★

もてる男ともてる女の極秘情報
お名前 ※
E-Mail ※

※もしも、届かない事がありましたらinfo☆cocoreo-r.com
(☆を@に変えてお知らせ下さい)

詳細はコチラ

恋愛相談の情報満載

恋愛は相談しましょう


恋愛相談の情報満載

最新情報


 女性専用のもてる女になるためのトッピクス(表)

 女性専用のもてる女になるためのトピックス(裏)




※※男性用の対象商材は一番下にあります↓




 もてる男ともとる女のためのもてる香水ってホントにあるのかな?
そう思って、こっそり差をつけようと調べたら…
やっと見つけました!
そして早速購入し使って見ることに。
香りの力の凄さを思い知りました。
なんでも香水一筋の会社が真面目に研究したみたい…

恋愛相談



RSSリーダーに登録すると、わざわざホームページの更新の確認が不要になります。とても便利ですので、ぜひRSSリーダーへ登録ください。
RSS購読〜最新情報Get!!
 
はてなRSSに追加 livedoor Readerに追加 My Yahoo!に追加
Googleに追加 goo RSSリーダーに追加 Bloglinesに追加
Technoratiに追加 PAIPOREADERに追加 newsgatorに追加
feedpathに追加
Powered by SEO対策 RSSプラス


ブックマークとは、自分のお気に入りページをインターネット上に登録し、いつでもどこでも簡単に観覧できるサービスです。☆ ↓オンライン上に出来る「しおり」に登録↓

このページは 2008年 01月 06日 10時02分38秒に更新されました。
/件

終わりとは?

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
主の年2006年の元旦礼拝は、この年最初の主日礼拝となりました。普段の日曜日は、教会学校の礼拝、小礼拝、主礼拝、そして夕礼拝と、朝から夜まで、礼拝のために教会が聞かれています。しかし、元旦礼拝においては、そのすべてを一つにして、一回だけの合同礼拝として計画されました。小さいお子さんたちから若い人たち、壮年の人たち、高齢の人たちまで、教会全体が一つに集められた神の家族であることを、共に味わうことになりました。交通規制をはじめとするさまざまな障害を乗り越えて、今年最初の礼拝に集うことのできたお一人ひとりの上に祝福を祈ります。またそれそれの場所で祈りを合わせながら、特別な礼拝を覚えてくださった方たちの上にも、祝福を祈ります。新しい年の歩みが、神のご計画に基づいて、豊かな導きのもとに置かれますように。
正月三が日の鎌倉の様子をご存じの方は、八幡宮へと流れていく大きな人並みの中に、黄色いプラカードを持って立つ人たちのいることも知っておられるでしょう。世界の終わり、神の裁きのときは近い、悔い改めよ、と呼びかけるメッセージをテープで流し続けています。教会へと招いているわけでもないようです。ただ繰り返して、裁きを告げる言葉を響かせているのです。不安で不確かな時代であればこそ、家族の安全と健康を祈ろうとして、お参りをする人たちが集まってきます。その大きな流れの中にあって、さらに不安をあおるような脅しとも聞こえかねない言葉が、道行く人にどのように聞かれているのでしょうか。ほとんど皆、素通りしていくのです。もしかすると、元旦礼拝の説教題を見て、ドキッとした人がいるかもしれません。「万物の終わり」。鎌倉雪ノ下教会においても、三が日の路傍の声と同じことを語るのだろうか。新しい始まりを覚える喜びのときに水を差すように、恐ろしい裁きを告げようとしているのか。確かに、聖書は、この世界に終わりがあり、裁きのときが来ることをはっきりと告げているのです。けれどもそれは、私たちに不安を抱かせて、無理矢理、信仰に引きずり込むためではありません。むしろ、聖書が終わりを告げるとき、そこには、大きな喜びの響きが満ちています。望みが溢れています。なぜなら、世界の終わりというのは、滅びの予告ではなくて、歴史の完成を告げる言葉だからです。
ペトロの手紙は、はっきりと告げて言います。「万物の終わりが迫っています」。確かに、この地上に永遠に続くものは何もありません。すべての物は過ぎ去ります。かつて、人間の生活はどこまでも発展していくのだと勝手に思い込んで、バラ色の未来を思い描いた時代がありました。しかし、今日では誰もが、地球そのものに寿命があるということに気づき始めました。地球の温暖化、オゾン層の破壊。さまざまな面で、環境破壊が進んでいます。今や地球の命が死に瀕している。そういう言葉が、ただの脅しではなく、現実味を帯びてきました。やがては地球と共に人類が滅びる日が来る。それは決して子ども向けのテレビ番組の話だけではなくなりました。私たち自身も、いつまでも若いわけではありません。次第に年老いていきます。体力の衰えを感じ、気力が弱っていくことを自覚します。やがては、自分の命の終わりのときが来ることを意識せざるを得なくなります。若いときにはそれほど意識しなかった「終わり」というものが見えてくるのです。私たちの置かれている現実を見渡してみても、確かに、終わりが来る、ということは避けがたく思われます。
けれども、聖書が私たちに「終わり」の事柄について告げるとき、そこには、明らかに、単なる滅びとは違った響きがあるのです。聖書が「終わり」について語るとき、それは、私たち自身の経験に基づいて、感覚的に捕らえる終わりとは違います。時間の中に生きているものが、古び衰え、やがて滅びに向かっていくというのとは違うのです。聖書の一番初めには、神が天地万物を造られた、天地創造の有り様が記録されています。この世界は何となくできたのではありません。偶然の積み重ねで進化してきたというのでもありません。神がすべての物をお造りになりました。そこから世界と人間の歴史が始まりました。そして、すべての物に始まりをお与えになった神が、すべての物に終わりをもたらされるのです。神は、何の考えもなしに、思いつきで世界を造られたのではありません。神は、ご計画に従って世界を始められました。そしてまた、ご計画に従って、世界を終わらせられるのです。
聖書が、「万物の終わりが迫っています」と告げるとき、それは、滅びへと向かいつつある世界と人間を見つめながら、絶望的に語っているのではありません。すべてを終わらせられる方と向かい合うようにして、望みをもって語るのです。なぜなら、神が終わらせられるのであれば、初めにご計画なさったとおりに、すべてを完成してくださると信じることができるからでず。万物の終わりとは、神のご計画に従って言えば、万物の完成されるときです。神のご計画は必ず成し遂げられるのです。そのお始めになった御業を完成するために、神は、ご自身に背いた私たち人間を救うための道をさえ開いてくださいました。この世界には、はっきりと、クリスマスの恵みが刻まれています。神のご計画は、私たち人間を救うために、その独り子を地上に遣わすほどの、深い愛の御心をもって成し遂げられるのです。それならば、どんなにこの世界に悪がはびこり、誰もが滅びを予測せざるを得ないような現実の中でも、なお神に望みを置くことができます。神は、初めの目的にかなうようにすべてを導き、御業を完成される。そのことを、御子イエス・キリストによって、信じることができるのです。
そうであればこそ、万物の終わりを見つめて生きる生き方は、それを終わらせられる、神を仰いで生きる生き方でなければなりません。世界と私たちが、造り主である神のまなざしのもとにあることを知る。それは同時に、終わりの日の裁き主である方のまなざしのもとで生きることです。だから御言葉は私たちに勧めて言うのです。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい」。万物の終わりのときとは、イエス・キリストが再びお出でになるときであり、私たちの救いが完成されるときであることを信じているならば、あわてることはないのです。捨て鉢になることもありません。落ち着いて、神の前にひざをかがめて、祈りに生きるのです。そしてお互いの間には、愛をあつく保つのです。
「愛は多くの罪を覆う」と教えられています。相手に対する深い愛があれば、むやみに相手の過ちを暴いて、人を傷つけるようなことはしない、ということでもあります。しかし、この勧めが、終わりの日を来たらせる方のまなざしのもとで告げられていることを思うならば、ただ相手を思いやって、その罪を隠し、見ないふりをするということではないはずです。むしろ、罪を罪として見つめ、深く悲しみながらも、その罪を赦すことを求めているのです。私たちは、それそれに、主イエス・キリストの十宇架のゆえに罪を赦していただいた者たちです。だから、主の教えに従って、互いに罪を赦し合うのです。私たちが、人の罪を赦すなどというのは傲慢ではないか。赦すことができるのは神だけだ。そういう思いを抱く人がいるかもしれません。しかし、私たちはそう言って、開き直ってはならないのだと思います。どうせ自分は罪人なのだから、人を赦すことなどできない、と言って開き直るならば、私たちの罪を赦すために十宇架の死を死なれ、私たちが新しい命に生きるようによみがえられたイエス・キリストの救いを見くびることになります。祈りをもって、互いの罪を赦し合う。お互いを受け入れ合う。そして不平を言わずにもてなし合う。そのような愛の交わりを築いていくのです。
元旦の礼拝が成り立つためにも、多くの愛の奉仕が献げられました。礼拝のために仕える人たちがいるのです。そして、御言葉を語り、聖餐を分かつ教師が立てられました。それそれが愛に生きる喜びを味わいながら、神が召してくださった奉仕に生きることによって、豊かな礼拝の交わりが造られるのです。聖書が繰り返し語る言葉の響きに、注意深く耳を傾けていただきたいと思います。御言葉は命じるのです。「愛し合いなさい」、「もてなし合いなさい」、「賜物を生かして互いに仕え合いなさい」。そこには一人のお客さんもいません。私たちは、互いに愛し合い、もてなし合い、仕え合うのです。目に見える愛のわざだけではありません。たとえ自分には何もできないように思われたとしても、祈りによって仕え合うことができます。執り成し合うことができます。そして、愛し合い、もてなし合い、仕え合う交わりの中に、あの方のお姿が見えてきます。礼拝の交わりの中心に、あの方が共にいてくださいます。私たちを愛し抜いてくださった方、私たちを今も、御言葉と聖餐によってもてなしてくださる方、そして何よりも、ご自身の命を献げて私たちの救いのために仕えていてくださる方。私たちが、この御方のもとに共に集い、この御方を共に仰ぐとき、御言葉の約束がそこに実現していることを知るのです。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。
聖書は、私たちのことを「神のさまざまな恵みの善い管理者」と呼んでいます。本当の優れた管理者は、自分の持っているものが、自分のものではない、ということを知っています。それはあくまでも、主人である方からあずかっているものです。この世界も、私たち自身も、神が栄光を受けられるために、神の栄光を現すために、神ご自身がお造りになり、神からおあずかりしているものなのです。だから、私たちに託されている賜物を、土の中に隠しておいてはなりません。互いのために生かして用いることを通して、神の栄光を現すのです。神のご計画のために献げるのです。教会は、いつでも、いつまでも、共に集まることを大事にしています。集まって一緒に礼拝をします。教会まで体を運ぶことのできない人のためには、教会から出かけていって、その人を囲んで礼拝をします。神によって召し出され、互いに手を差し伸べる交わりは、何よりも礼拝の中で一つの恵みに共にあずかることから始まるのです。ただ説教を聞くだけならば、自分一人、ラジオやテープ、インターネットで聞くこともできるでしょう。しかし、聖餐の恵みを分かち合うためには、集まる必要があります。神から恵みを与えられ、それをまた隣りの人に差し出していく。そのようにして、一つの糧を共に分かち合う中で、主によって結び合わされた恵みを生きるのです。
一年の初めに、聖餐にあずかります。新しい年も、聖餐の食卓に連なり続けて歩みます。聖餐制定の言葉の中で、使徒パウロは教えました。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。主は再び来られます。万物に終わりをもたらし、私たちの救いを完成するために、主は再び来られます。そのときまで、御言葉を聞き続け、聖餐を祝い続け、主の栄光をたたえて、共に歩み続けたいと願います。教会に連なる皆さまおひとりひとりの上に、心より、新しい年の祝福を祈ります。

[ 3] 説教0601 「万物の終わり」
[引用サイト]  http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/s0601.htm

 

戻る

 


今日のニュースです(^^)
恋愛で検索してみると面白動画が☆☆

ログログシール
 
恋愛こちらは男性専用でございます。
かなりインパクトのありすぎるほどの、もてる情報ですので
覚悟のの無い方はご遠慮ください。
内容抜粋ーどんなに美しい女性でも、たったひとつの質問で…
もっと詳しく >>
 
 恋愛相談トップ |  恋愛相談商品情報 | 恋愛相談良くある質問 | 恋愛相談方法 |  恋愛お問い合せ
copyright 2004 © www.motelu.net

SOHO・起業家を成功に導く電子書籍販売ツールを提供・・インフォカート

Yahoo! JAPAN


Google
Research Artisan